OMAN navi !! (オマーンへの誘い)

オマーンの歴史

 
 
qalhat
salahlah
 

 有史以前

イスラム教普及以前のオマーンの歴史はほとんど解明されていませんが、近代の考古学的発見や研究から、少なくとも 5000 年前にはオマーンに古代文明が存在していたことが明らかになっています。
シュメールで発見された文字板に銅の産地として言及されている国 (マガン) が、オマーンであることはほぼ間違いありません。 また、紀元前 2000 年頃には銅の採掘・精錬がかなり大掛かりにおこなわれていたことも、ソハール近郊の採掘跡から推測されます。
古代人の社会生活及び宗教儀式に欠かせない乳香がドファール地方で採取されていたことも判明しており、交易社会が存在したことを裏付けています。さらに、漁村が古くから存在していた証拠も出てきています。
現代のオマーン人の祖先は、長い年月の間に 2 度にわたって流入した移民であると見られています。最初はイエメンから、 2 度目はペルシャ人占領時代に北アラビアから来たものと推測されています。

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 イスラム教の到来

予言者モハメッドがオマーン人にイスラム教を説いたことが、オマーンの歴史を大きく変えました。アブトとジャイファの宛てた予言者モハメッドからの書簡を携えてアムル・イブン・アルアスが来訪したのは、紀元 630年頃のことです。アブトとジャイファはアル・ジュランダの息子で、当時のオマーンの共同支配者でした。イスラム教に帰依した二人はペルシャ軍を制圧しました。
こうして、理想的な真のイスラム教国家をつくりあげることを目標に、イスラム教主 (イマーム = 最高宗教指導者) による統治が始まりました。
紀元 751 年、ジュランダ・ビン・マスードが最初のイバーディ派イスラム教主に選出されましたが、その後戦死し、紀元 801 年にワリス ・ビーン・カーブが選出されるまで、オマーンは長い混迷期を迎えました。その後 300 年以上にわたって平和で豊かな安定した時代が続きました。
海上貿易が盛んに行われ、ソハールはイスラム最大の港町となりました。航海や交易を通じて、オマーン人はアラビア語やアラビア文化とともにイスラム教の教義を広め、その活動範囲をはるか東方の中国にまで及びました。

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 ポルトガル人の占領

15 世紀末にバスコ・ダ・ガマ率いるポルトガル人たちが喜望峰を回るインド航路を発見した時代にアルフォンソ・アブケークがオマーンに上陸しました。すると彼らは 1 世紀半にわたってマスカットを占領し、それまでアラブ人が占領状態であった交易を支配しました。
そして 1650 年、スルタン・ビン・サイフ・アル・ヤルドがポルトガル人をマスカットから追放しました。

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 ヤールバ王朝

ポルトガル人の撤退以降、ペルシャ人が一部を占領した短期間を除いては、外国人勢力がオマーンを占領したことはありません。
ヤールバ王朝時代は、国内外でオマーンの経済が力を取り戻し、国の統合と繁栄を実現しました。ニズワの城壁やジャブリンの宮殿など、近年修復が行われた美しく見事な史跡が建造されたのも、ヤルーバ王朝時代です。

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 内乱

1718 年、時のイスラム教主、スルタン・ビン・サイフ2世が崩御すると、後継者をめぐって内戦が勃発しました。
ペルシャ軍はマトラとマスカットを占領しましたが、アハマド・ビン・サイドが防戦したためソハールの攻略には至りませんでした。アハマド・ビン・サイドはその後もペルシャ軍との戦闘を続け、内乱を終焉させると彼らをオマーンから撤退させました。

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 アル・ブ・サイド王朝

1744 年、高潔にして勇猛果敢なアハマド・ビン・サイドがイスラム教主に選ばれました。内乱終焉後は対立派の調停に苦闘を強いられたが、強大な艦隊を組織し、自ら指揮して海賊を追い払い、ペルシャ人をバスラから追放しました。
1783 年の死去に伴い、息子のサイドが後継者に選ばれましたが国民の支持を得られず、その息子のハマッドが跡を継ぎました。父はルスタクにとどまり、ハマッドがマスカットの事実上の支配者となりました。 1792 年にハマッドが急死すると、叔父のセイイッド・スルタン・ビン・アフメッドが後を引き継いで 1804 年に死去するまで権力を手中にしました。オマーン国内のみならず湾岸地域の交易も厳重に支配したアフメッドは、欧州諸国からも有能な支配者として認められました。

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 サイイッド・サイド・ビン・スルタン

サイイッド・スルタンの後継者となった息子のサイイッド・サイド・ビン・スルタンは 1804 年から 1856 年の間、オマーンを統治し、父王が築きあげた国内外の業績を確固たるものとしました。オマーンが湾岸と東アフリカに領土を所有し、地域勢力として絶頂期を迎えたのもこの時代です。
サイイッド・サイドはオマーンの経済と通商の発展に力を注ぐと共に、米国に特命使節団を派遣してアラブ諸国として初めて同国との外交関係を樹立したほか、ザンジバルを第二の首都とし、欧州列強とも協定を結びました。 しかし、その後哀退の時期が訪れました。

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 近代オマーン

第一次世界大戦時には国際貿易におけるオマーンの勢力は極めて弱体化しました。
1970 年にカブース国王が即位するまでは、ほとんど外界から隔絶された孤立状態にあったといえます。カブース国王の治世は、オマーンの昔日の栄光を取り戻し、進歩と繁栄、及び社会的・経済的発展の輝かしい新たなる幕開けを告げるものです。

 
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